『やりなおし高校国語』出口汪
『やりなおし高校国語』出口汪 を読んだ。
高校国語の教科書に載っている作品は、高校を卒業して様々な経験をしてから読んでみるといろんな気付きがあるって書いてあるけど、たしかにまだ20代だけど昔とはちょっと見方が変わったわ。
特に舞姫。
昔は豊太郎がただの軟弱なムカつく野郎って思ってたけど、封建時代と近代の間で苦しんだ人間だと思えばまた違った見方になるな。
まぁこれ解説にそう書いてあったからそう思っただけで、解説無かったら気づいてないような気もするけどね。
自分でもっと読み深められるようになるといいね。
あとこの筆者よく国語の参考書出してるよね。読んだことないけど。
以下メモ
これらの名文は経験を積んだ社会人がもう一度学習して、初めてその深さ、面白さに気づくものばかりなのである。
誤読や主観的な読みの上には、どんな鑑賞も成り立たないのだ。
国語の学習の目的はまず正確で、深い読解力の養成にある。
近代に入って、集団から個人を分離させようとしたのが「自我の確立」だが、その結果、明治の知識人たちはそれぞれ己の孤独と向き合わざるを得なくなった。故郷や家から切り離された彼らは、都会の片隅で孤独に耐えながら、自己の精神を確立させようとした。やがて自我がエゴとすり替わっていったのが、近代の精神史なのである。
作品を正確に、客観的に、深く読解することなく、自分の狭い価値観から作品を歪めて解釈し、断罪する。そしてそれを個性や独創性だと勘違いする。このような教科書の読み方をしている限り、真の学力が身につくはずがない。
評論とは、この現代をある角度から語ったものである。複数の評論を真に理解すれば、複数の角度から現代への認識を深めたことになる。
私達は文章を客観的に読もうとすれば、自らの主観をいったん括弧にくくり、筆者の立てた道筋を追うことになる。これが論理的読解であり、本文を正確に理解したあと、再び自分に戻り、筆者との対話が始まる。
一度孤独を感じて、孤独を癒やされた人間には、もはやかつての孤独を耐え抜く力は残っていない。
あくまで本文を根拠にしたことが条件であり、それを無視した恣意的な解釈は成り立たない。
↑文から連想できる常識的なことは根拠に含めていいよね?「私は傘を閉じた」→ここから「雨が降っていた」って常識的に連想できるみたいなことは
国語の教科書は答えのないところで、物事を深く考えることの大切さを、思春期の高校生にしっかりと伝えている。