徒☆然☆GU☆SA

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『人をつくる教育 国をつくる教育』小室直樹、大越俊夫

 

小室直樹氏の本、初めて読んだけど面白い。

デュルケムのアノミーが気になった。

 

 

 

以下メモ

現在の学校教育では、「何が正しいのか、正しくないのか。何をすべきか、すべきで ないのか」という規範を、幼稚園から大学院にいたるまで、一切教えません。

 

だから今こそ、哲学や文学を教え、その上で「人間はどう生きるべきか」という規 範をしっかり持った子どもたちを育てていかなければなりません。

 

青年期において、ある境目を突破すると、まるで違った人物に生まれ変わる。 そのことをルソーは、「第二の誕生」と言いました。松陰塾生たちに、まさに「第二の誕生」を起こさせたといえるでしょう。

 

あふれる才能と情熱 を開花させる。そうして 「第二の誕生」を果たして大飛躍させる。それが「本物の教育」だと思います。

 

大学は本来、学問好きな人が、学問好きな学生を集めて作った、権力から独立した 教育機関なのです。ところが日本の場合は、国家権力が役人養成という目的を持って大学を作りました。 大学はいわば役人養成機関ですから、大学が堕落すればやがて役人も堕落してしまいます。

 

「何のために死ぬのか」。このことは私たち人ひとりが、自分のこととして考えなければならない問題だと思います。

 

どのようなことでもいいから、長所を見つけだす。 そして、長所を伸ばす教育をす る。この方法は、最も効果的な教育方法だと思います。

 

中国であればこそ、孔子孟子のような聖人、賢人が現われる。日本では聖人が現 われるはずがないので、中国の聖人の教えさえ学べばよい、と当時は考えられていたのです。

 

現世利益とまったく結びつかなくても、勉強をさせる。それだけでも、理想的教育 だと言えます。

 

受験教育により、物事の本質を追求する教育から、与えられたものをこなすだ けの受身的な教育に歪められてしまったのだと思います。そして受験教育の弊害に気 付かず、表面だけの教育改革を続けたので、より受身的な教育になってしまったのです。

 

現在の日本は、幕末と同じように混迷の時代だからこそ、松陰が行なった熱狂的な 情熱を伝える教育、若者に考えさせる教育が必要なのです。

 

若者が「第二の誕生」を遂げる。それは言い換えれば、旧来の価値観から、新しい 価値観を持つ人間に劇的に生まれ変わるということです。そのためには、ある種の洗 脳は不可欠です。

 

現在は、資本主義の発展期ではありません。すでに、資本主義は終焉に近づいてい えん ます。そういう意味において、発展期に都合のよい教育は、終焉期には不都合だらけ になるのです。

 

日本を恐れたア メリカは、日本の歴史を研究し、「どうすれば日本は報復戦争をしなくなるのか」を 考え、日本の戦力を奪うと同時に、日本人の精神を骨抜きにしたのです。

 

そして民族に対する誇りや、国家に対する矜持も失った私たちは、民族の精神的支柱と日本人としての連帯感を失い、アノミーに陥ってしまったというわけです。

 

みんなで暴れていれば、アノミーという、連帯感がない状態に陥らなくてすむからです。つまり、みんなで暴れる必要があるということは、逆にアノミーに陥っているという証明なのです。

 

戦後、彼は作家になります。 そして、日本人はいつからおかしくなったのか、いつ から国を守るべき人たちが国民を殺すような人種になったのか、ということを追求し 続けるのです。

 

明治時代には、吉田松陰ほどではありませんが、比較的優れた政治家や 官僚は存在したのです。なぜなら、彼らは選ばれた特権階級だとの意識をもっていたからです。 特権階級であればあるほど、「ノーブレス・オブリージュ」という意識を強く持っていたからです。

 

現在の東大生には、国民全体の期待を一身に背負っているという意識はありません。受験勉強ができたから合格した、というだけです。優者の責任を果たすという意識は まったくありません。だから私利私欲のことしか考えない、最低の官僚しか現われなくなったのです。

 

まず、大人である私たちから、「自分の能力や財力の半分は、自分のため家族のため に使う。しかし、残りの半分は、世のため人のために使うのだ」という気持ちを持つことが大切なのですね。

 

「日本には天皇制という封建的な制度が残っているので、資本主義よりも はるかに遅れている。だから、天皇制を打倒しなくてはならない」と言ったのです。この時にはじめて、天皇制という言葉が使われたのです。

 

山鹿素行や崎門学では、「日本人として、どういうふうに行動すべきか」 ということについて探求していましたが、ほとんどの学者はそのことをしなかったのです。

 

自分の国の歴史に誇りを持てなかったら、本当の意味で自己を確立することが できません。自己がないのですから、自分のことを考えることすらできません。です から、「利己主義」や「自己中心主義」にすらなれません。

 

デュルケムの言葉で、人間は連帯の中にいなければ、人間としての 生活をすることができない。 連帯こそ人間の生活の基礎である。 連帯から外れると、人間は身の置き場がなくなってしまい、混乱の極みに達する。それが、アノミーである」と書かれており、それが原理・原則であるとおっしゃっています。

 

アノミーの解消方法は、自分が打ち込めて一体化できるものを探すことです。そう することができれば、すぐに治ってしまいます。

 

精神分析学でも、「人間のあらゆる欲望の中で、「連帯」は最も重要なものである」と言われています。これを失うと、人はとてつもない精神異常になってしまうのです。

 

大学紛争は、何も要求がないのに、命がけで紛争を起こしたのです。要するに、連帯感が欲しかった。つまり、アノミーだったのです。

 

アノミーの解決方法は「連帯」を持つことです。

 

その頃の日本の慣 習では、親の跡を継ぐというのがとてもいいこととされていたことです。親と関係な いことをやるのは道楽だという考え方すらありました。

 

昔は早稲田出身者が役人になるなんて考えられず、民間にいて、編集者 ほんけ ほんもと や新聞記者になって政府を攻撃するイメージがありました。 政府批判の本家本元という早稲田の評判がつくられていったのです。

 

これはどういうことかと言いますと、役人というのは人に命令されたことをきちんと遂行するという訓練を受けるものなのです。だから、何のためにこういう命令が 下ったのかということまで自分で考える必要がなくなってしまう。

 

本当は、明治時代に、役人養成所として帝大法科大学を作ったのだったら、政治家 養成のために、もっと上位の学校を作っておくべきだったのです。

 

ひとえに権力が正しく行使されていないからです。国家権力が正常に 機能していないから、それに反抗するレジスタンスもなくなったのです。

 

国家権力はものすごく強くなるの で、国家権力という怪獣が一般国民を噛み殺さないよう、二重三重に歯止めをかけなければいけません。 その歯止めをするのが、「憲法」なのです。

 

朱子学のいいところは、「何が良いことで、何が悪いことか」、即ち倫理学を教えてくれることです。この倫理学を中国から輸入して、日本の武士に教えたのです。

 

「国も国民に助けられ、国民も国に助けられる」関係ですが、今の日本には、こういう基本がありません。

 

外国をたんに拒絶するだけの対応なら、インドや中国、あるいは南米諸国みたいに、欧米に滅ぼされてしまいます。

 

「これが正しくて、これが正しくないことだ」ということを断固とし て教える人が現われたら、いとも簡単にそれを信じてしまうのです。どんな学校秀才 ですら、そうなのです。だから、日頃から「何が正しくて、何が悪いか」ということ を教えないのは恐るべきことなのです。

 

成祖永楽帝が、科挙という理想的な制度をさらによくしようと思って口出 しした結果、逆に最悪の制度になって、融通のきかないロボット人間 (金太郎飴人間)を大量生産してしまったのです。

 

「勉強」は、当たり前の上に、たくさん情報を積み上げて、それを試験で吐き出した らいいだけです。「学問」 は、当たり前と思っていることを、本当にそうだろうかと 疑っていくところから始まるのです。

 

自分ははっきりとこれが嫌だから辞めたのだ、という意志を貫き通すので す。何となくできないから辞めたというのではなくて、よく考えて、嫌だから辞めた のだから、確固たる決意 (意志)をもって別の道をえらび、頑張ってほしいのです。

 

進んだ道の先達の歴史を必ず勉強してください。こういうことをしないと、自分の位置、つまり存在理由が分からなくなるからです。それを歴史から学ぶ必要があるのです。

 

多くの場合、歴史上で偉大なことをした人は、その当時の人々には「狂人」と 思われています。ところが、のちの歴史家は「狂人のように見えただけで、本当はそ の人は正常だった」と言い直しています。