『物語論 基礎と応用』橋本陽介
自分も好きな作品について、構造的なところから分析できるようになりたいと思った。
あと国語の授業と受験の違いをここらへんから明確にしていきたいな。
以下メモ
私達が普段接している様々な物語ももちろん設計図がある。書き方はある程度決まっているのだ。
物語は人物の行為によって筋が展開され、しかもその筋に関係する行為はその物語でも同じだというのである。そしてこの物語の筋に関わる人物の行為を機能とよんだ。
プロップの論理において ~ キャラクター性やその心理などはあまり重要なものではなく、何をするかという役割のほうが大切なのである。
近代小説では人物が「個人」として描かれるようになり、その心理も重点的に描かれることが多くなった。言い換えれば、人物を一つの存在として描くようになったのである。
「機能」は時間的展開がある動的な単位であるが、「指標」は多くの場合で時間的展開のない静的な単位である。
ある特定の文学をあれこれと研究するのではない。人々が「文学」とみなすものは、なぜ「文学」となっているのだろうか。その背後にはどのような法則・メカニズムが隠されているのかを研究しようというのである。
「物語」の定義。時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの。
同じ内容(物語内容、ストーリー)を異なった形式(物語言説、ディスコース)で表すことができると仮定するのである。
「物語内容の時間」とは、出来事が起こった順番に並んだものであり、「物語言説の時間」とは、それをどのような順番で語っているかといったものである。
叙述の速度を遅くすると、臨場感が出やすい。 ~ 叙述の速度をどのように使い分けるかによっても、受ける印象は大きく異なってくるのである。
→お笑いトークもこんな感じやな。詳しく場面を話すことで臨場感を出す
物語の語り手は要約したり、詳細に語ったり、時間を飛ばしたりするなど、自由に行うことができる。
要約的に筋を語るのがディエゲーシス、演劇的にできるだけそのシーンを再現しようとするのがミメーシス
→ミメーシス=臨場感 ディエゲーシス=物語世界とは隔たっている。
本来ならば、他人の内面は究極的には知り得ないが、物語では人物に焦点化して語ることができる。これは物語の特権であり、本質的な要素といってもいいだろう
英語などでは、自分自身しら外側から客観的に眺めて語るのに対して、日本語はその語られている状況の内部にいる人物に同化してしまうのである。
日本語はしばしば三人称を「省略」すると言われているが、これもやはり単に省略されているのではない。視点が登場人物に重なってしまうため、その人物を表すさん人称代名詞が消えてしまっているのである。
授業と入試に齟齬があるのは、一つには授業では客観的正解を一つに決められないレベルまで扱うからだろう。
言葉にするとはある種の抽象化であって、事物や出来事そのものを直接聞き手に届けるものではない。 ~ そのメッセージを解読する人、解読するその時点において、その都度、解読されるメッセージは異なってくるものなのである。 ~ しかし、「読者によって異なる」というのは、あくまでも細かく見た場合の話である。私達は人間である以上認知の仕方は比較的似ているし、人生経験や知識も他人とまったく違うなどということはない。 ~ ある程度同じような読みの方向に読者を誘うことは可能だし、同じように思わせることも可能である。
詳しく説明されれば余韻がでるはずがない。語られない部分を読者が補うように仕向けることによって、情感がでるのである。
複線的な物語とは、物語分析で言えば、閉じられないシークエンスが数多く存在することだ。閉じられないシークエンスは人をハラハラさせる。語源的な意味でのサスペンスである。
特にエンターテイメント小説は、ほとんどが抽象的な構造において似た形式を取っている。その法則からずれているものはあまり多くない。というより、法則からずれたもので、エンターテイメントとして面白いものを作るのは難しいのである。
文学的な小説では、「説明せずに描写せよ」と言う。「かわいい」というのではなく、それを具体的に、出来事の中で表現していくののが物語化することである。
→「かわいい」など抽象的な言葉は人によってイメージが異なる。だから自分にとっての「かわいさ」はどんな行動、仕草、考え方なのかを具体的に描写する。
つまらない物語は描写せず説明するから、キャラに魅力と説得力がないんだよね。これ藤田和日郎先生もいってたな。
修飾語においてあるので、サラッとしており、架空の現実のほうが力強いことが、ごく当然であるかのような書き方になっている。