徒☆然☆GU☆SA

本とか漫画とかアニメとかの感想や考えたことを思いついたまま書くよ

『物語もっと深読み教室』宮川 健郎

 

 

 

 

以下メモ

語り手は、作者ではありません。実生活を生きる作者が中年男だとしても、彼の作品を小学生の男の子に語らせることも、若い女性に語らせることもできます。作者は、作品によって、語り手をつぎつぎに乗り換えていくことができるのです。

 

語り手と作者をあえて別のものと考えるのは、文学作品について考えるとき の方法、あるいは、重要な仮説です。そうした方法や仮説のもとに考えたとき、作品は、新 しい顔を見せはじめるはずです。

 

「何が書かれているか」は、「物語」の内容や主題を読むこと。それに対して、「どのように書かれているか」は、「物語」の表現や構造を読むことですね。

 

「ふつう」と「ふしぎ」を区別して、その二つを移りわたる場合には、何か 手続きがふまれなければならないと考えるようになる。これがファンタジーという考え方です。

 

近代文学とそれまでの文学のちがいについては、いくつもの観点から考える ことができるはずですけれども、大きなちがいの一つは、それまでの文学が人間を外側から写すのにとどまっていたのに対して、人間の内面を書くようになったということですね。

 

国語の教科書にのっ ている文章だというと、すばらしいものだと尊敬されますが、かならずしも、そう思わなく ていいと思います。教科書には絶対的にいい文章がのっているわけではない、いろいろな条件をクリアした相対的にいい文章がのっていると考えてください。

 

私は、文章の意図するところは作者の胸のうちにあるとはか ぎらないと考えているといったかと思います。むしろ、作者さえも気がついてない文章の真 の意図を読むことが読むことなのではないかともいいましたね。その考えは、いま紹介した「作者の死」とも重なります。

 

自然主義の作家たちは、文学上の技巧をやめて、ひたすら現実を写すのが文学だと考えて きたわけだけれど、大震災によって現実が崩壊してしまった。そのことによって、文学はもう現実を写すのではなく、ことばによって新しい現実を創り出すものへと変わらざるをえ なくなった......

 

「つくえ」という言語音と意味の関係ですけれども、こういうものを「つくえ」と呼ぶというのは、たまたま、そうなったということにすぎません。言語音と意味と の関係は、そういう、たまたまのものなので、その関係を言語学では「恣意的」だといいま す。

 

オノマトペには、生き生きした描写力があるということになります。 「つくえ」という音からは、それが「机」だという約束事を思い出すだけだけれど、「ドブン」という音からは、「ドブン」という情景を、ありありと思い起こす。

 

語源というものが明らかな場合があります。でも、語源というのは、「机」な 「机」をどうして「つくえ」と呼ぶことになったのかという、たまたまのいきさつを明ら かにするだけで、かならず 「つくえ」という言語音でなければならないという説明にはなっ ていないんですね。

 

みなさんも、表現者になるならば、現実とはちがう場所に立たなければならない。「書く こと」の場所とでもいうべき、そこに立つことができるのは、現実を生きている自分ではな い。自分とは別の語り手を創造して、その語り手に語らせるんです。語り手は、実際の自分 そうめい より、ちょっとおしゃべりかもしれない。実際の自分より、ゆったりと聡明かもしれない。 自分のなかに、語り手というキャラクターを生み出すことができたとき、その人は、表現者になれる。

 

オノマトペとは何か。 オノマトペは、実際の音の模写ではなく、一種の「見立 て」ではないかと思うんです。 「見立て」というのは、あるものを仮に別のものに見なして、 なぞらえて表現することです。

 

擬声語や擬態語、ひとまとめにしてオノマトペを「見立て」だとしましたが、「たとえ」 といってもいいと思います。