徒☆然☆GU☆SA

本とか漫画とかアニメとかの感想や考えたことを思いついたまま書くよ

『使える!「国語」の考え方』橋本陽介

 

 

小説を学ぶ意義が問われている中で、どのような教育を行うべきなのか、何を学んだら良いのかを考える必要は、今後今まで以上に出てくるように思われる。

学校空間で教師から与えられるものは「正しい」ものであり、その「正しいもの」を読み込むことが正解とされている

近代の小説では「説明するな、描写しろ」とよく言われる。(略) 小説ではあくまでも具体的なエピソードや、その場面、もしくは人物を描くことによって伝えるのである。

→「優しい」をとっても、ただ優しいと書くのではなくて、「優しい」が伝わるように具体的なエピソード、場面、内面を書く。

小説を扱った現代文の授業を「つまらない」と感じる典型的な意見をまとめれば、「ただ読んでいるだけ」「解釈を一つに決めようとする」「何の力を付けようとしているのか分からない」「普遍的な論理がない」などになるだろう。

言語にするとは、一種の抽象化だ。

→言語にするとは現実のある要素が抽出されること。だから「犬」という言葉をとっても、人によって「柴犬」「プードル」「子犬」「お手をしている犬」「飼い犬のポチ」など「犬」という言語からイメージするものは異なる。だから同じ文を読んでも人によって解釈が異なる。

私達が文の意味を解釈するときには、単に文字通りの意味を解釈しているだけではない。常識に属する知識や、「傘→雨」のような関連事項などを含めて読解している。また、私達は文を場面の中で解釈する。

→同じ文化圏、国、地域、世代等で共有された背景、知識がある場合、解釈の幅は小さくなりやすい。

作品として作者の手から放たれているのだから、それを読んだだけでどこまで理解できるかが第一に重要であるはずである。

→作者の人柄、背景などから作品の意味を考えると、解釈が阻害、または過剰になってしまうことが考えられる。

テクストに働きかけられた読者は、そこで何らかのイメージを作り出す。単にテクストがあるだけでは意味をなさず、読者の主体的な参与があって初めて生まれるのである。

→これもっと深めたいな。「読者論」か。

優れたものかどうかという価値の判断は、本来は読者に委ねられたいるものであるが、学校教育では許されないことが多い。

→すでに「正解」は学校に決められていて、その正解を生徒が探すという形になっている。「正解」とは異なる場合は、「劣等」と扱われる。

小説を読むならば、価値判断までが含まれるはずであり、一方的に「味わえ」というのは暴力にほかならない。

→おもしろかったのか面白くなかったのか、の判断を生徒にさせ、なぜそう考えたのかまで考えさせる。

受験がある以上、受験勉強的な読み方は高校生にとって重要であるが、それとこれとは別であることもできれば示したい。

文学が果たす役割は、特定の見方の押しつけでなく、むしろそれを揺るがし、拡大していくことではないだろうか。

→様々な考えや、他者の内面を知り、自分や自分の考えを相対化や客観視できるようにする。

説明文や論説文というのは、知らない人に対して何かを説明したり、自分の意見を伝達したりするものである。

→伝えるために論の展開方法、構成を考える必要がある。

文章が分かりにくいのは、一つは構成の仕方が悪いのだが、もう一つは読み手の知識が足りないということがある。

 

数学的な厳密な意味での「論理」と、私達が使っている言語の間には、大きな違いがある。

 

知識・情報がどのように出来上がっているかが分かるようになることが重要なのである。

一歩進んだ読解力では、その文章が妥当であるかどうかを判断する方法が必要である。

→本当に正しい情報か検証する能力が必要。

その知識が何を根拠にしているのか、なぜそう言えるのかと常に問えることが「教養」であり、「リテラシー」なのである。

人文学の教養を積むと、知っていることが増えると思いがちだが、実は「分からない」ということが分かるようになり、何が分からないか分かるようになるのである。

 

課題は無から見つかるものでなく、新しい知識をインプットし、検証していく過程で発見される。