きみがモテれば、社会は変わる。宮台真司
宮台真司『きみがモテれば、社会は変わる。』を読んだ。
宮台真司ってアニメの評論とかでよく出てくるから知ってたけど、普通にいいこといってるんやね。
モテに関してはあんまり触れていないと正直思うけど、当たり前だけどつい日常では忘れてしまうような大切な考えが書かれてると思う。
この人の言うことは自分も最近考えてた。みんなで幸せにならないと自分もしあわせになれないって考え。
誰かに犠牲や負担を押し付けて見て見ぬ振りしたことって、いずれ自分の苦しいときに絶対返ってくると思うんよな。直接的ではなくても。
大事なことは、問題を自分事に捉えて、自分の事の責任は自分で落とし前をつけて、社会の事の責任も負担し、他人を助けること。
これが本当の「大人」やと思う。
これシン・エヴァンゲリオンで言っていたこととほぼ同じやな。
やっぱシン・エヴァは当たり前だけど大切なことを伝えてくれる最高の作品や。
以下、メモ
グローバル化のもとでは「経済を回しながら、どうやって社会を回すか」という工夫や処方箋が必要なわけで、バカのひとつおぼえのように「あっちか、こっちか」などと瞑想を続けいている暇は、ほんとはありません。
広がりはじめたグローバル化ののもと、先進各国ではさまざまな議論をへて、「地元、地域をも守るために、人々は多少の犠牲はあえて承知する。何を買うか、どこで買うかといったみずからの購買行動を、いわば選挙における『投票』のように行使するのだ」という共通の認識を持ちました。
日本にはそもそも、グローバル化について「どのように」対処するのか、といった問題意識はまったくありませんでした。
日本の社会は<任せてブーたれる>ことで、なんとかやっているように見えていました。しかしそれは参加の放棄であり、自覚のない過度の<依存>です。
これからの「新しい社会運動」は~(略)~いわば、共同体が市場に<依存>しすぎても、国家に<依存>しすぎても危険だ、という発想です。
「平時」に回るシステムが「非常時」に回らなくなったらどうなるか、それを想像するには、知的な頭脳と努力が必要だったからからです。にもかかわらず、日本ではそれがないがしろにされ、「平時」に回るシステムへのバカげた<依存>だけがはびこり続けました。
自分を支配するのは空気であり、自分の意思決定ではないという話になれば、誰も責任を取らないか、全員で責任を取るしかなくなってしまう。結果的に全員で責任をとるという姿勢は、「赤信号みんなで渡れば怖くない」のと同じです。こんなことではすべての政治的決定は、きわめて無責任なものになってしまうでしょう。
日本というクソ社会。これを少しでもマシなものにするには、<悪い心の習慣>と<悪い共同体>、<過剰依存>と<思考停止>をぶち壊さなければなりません。
↑<悪い心の習慣>とは空気に流され、逆らえないこと
自分を承認してくれる「他者」とは、実は「自分でつくりだす」しかないということです。
これからの社会で幸せになろうとするにはただひとつ、「他人を幸せにできるかどうか」にかかっています。
「頭がいい」「いいひとである」より、「他人を幸せにできる」こと。それこそが幸せに生きるために必要だとすれば、その問いは必ずその時代の社会的枠組み(政治や経済、文化など)とつながってきます。そういう社会的枠組みをひとりひとりが問うことが、君たちの「幸せ」について考えることにもなるわけです。
<依存>ではダメなんです。自立しないといけない。だから、自分たちを自分たちで、きちんとコントロールできるようなシステムやメカニズムをつくっておく必要があるんです。
ローカルであること、近くに接していること、ひとつの共同体を意識する中で、お互いに内発的に「いいことをしようじゃないか」と思うような社会をつくれるかどうか。これこそが、日本が変わっていけるかどうかの、大きなポイントだと思います。
これからはもうけたいなら「本当にいいこと」をしないと無理、そんな市場を支える社会をつくる必要があります。
コンビニエント(便利)な街やアメニティ(快適さ)にあふれる街は、今や日本のどこにでもあります。そして、そこでは場所と人が「入れ替え可能」、つまり「その場所でなくてもいい」「この自分でなくてもいい」という関係になっている。
↑人の繋がりを断ち切って効率化を求めた街は均一化する。そこは便利だけどつながりがない街(アイデンティティにならない街)となる。
「社会を回す」ということの本質は、職を失ったり、離婚をしたり、あるいはちょっとした罪を犯すなどといった失敗程度では、けっして路頭に迷わずに済むような社会にしていくことでもあるのです。
「早い、うまい、安い」という便利さだけを優先するのではなく、それによって失われるものをしっかり検討し、自分たちの足元が空洞化しないようにすることです。
包括的で相互扶助的な厚みのある社会。それを支援するのが政府であり、国家の役割のはずです。すなわち、<小さな政府・大きな社会>というわけです。
↑国家の役割は、自然状態の暴力を取り上げ、各個人が幸福を追求するために、他者を侵害しないためのルールを設定するものでもあるよな。
「いい学校、いい会社、いい人生」なんていう、勉強田吾作のためのコースに乗ろうとすることは、今や「ふ~ん、そう」という以前に、害毒以外の何物でもない。あさましいですよ。
このでたらめな社会を放置してー他人の不幸を見ないフリをしてー個人が幸せになるなんて不可能です。そこを勘違いするような人間は、軽蔑や嫉妬に対象にはなっても、リスペクトの対象にはならない。
きみたちは、社会的貢献であることによって、利他的であることによって、幸せになるしかない。それ以外に、きみたちが生き延びていく道はない。
【追記】
手書きで書くのすげー疲れた。
あと感想書いといて思った自分に対する批判なんやけど、この本読んで出た感想がなんか自分が元々持ていた考えやその枠組に押しはめたような感想になっている気がするんやわ。
自分の考えや考えの枠組みを強化するように読んでいるというか。
これだと考えや視野は広がらないから、気をつけよう。